上畳に束帯姿で坐す貴人像の伝統は、神護寺三像以来のものであるが、本図の絹目は粗く、時代が降ることを示している。像主については必ずしも明確に伝えられてきたわけではないが、賛文がかろうじて「大納言」「大将軍」と読まれるところから、大納言で征夷大将軍であったのは足利尊氏と義詮の二人だけであること、本図が伝来する宝篋院が、足利義詮が帰依し、その臨終にも侍した黙庵周諭の塔所、善入寺の後身で、義詮の法号に因んで今の名に改められた寺院であるところから、足利義詮に比定されている。
足利義詮の肖像が没後まもなく制作されたことは『門葉記』の「門主行状三」後青龍院宮尊道の項の応安元年(一三六八)二月二十七日の条に「故将軍義詮影像御衣絹加持之 此事先規如何 然而依武命難遁避領納了」とあることからもうかがうことができる。本図がこの記事の像に相当しないことは、足利義詮は貞治六年(一三六七)十二月七日に没したあと、同月三十日に左大臣従一位が追贈されているが、賛文にはなお大納言と書かれているところから、明らかである。そのかわり、これによって着賛の下限がおさえられることになり、本図が遺像としても没後、間もない時期の作であることがわかる。
本図は賛文や上畳の部分に剥落が甚しいものの、肝要な相貌についてはよく保たれており、生彩ある表情をうかがうことができる。足利義詮は三十八歳の生涯のほとんどを戦乱のさ中に過ごした。その表情は複雑な抗争の時代を戦い抜き、足利政権の基盤を固めることに成功した武将の強靱な精神を見事に伝えている。