丘陵上ニ營造セラレタル圓墳ナリ封土高サ三間餘徑約七間石室ハ二個相雙ヒ一ノ巨大ナル凝灰岩切石ヲ刳リ拔キタル特殊ノ構造ニ屬ス乾漆製棺ノ一部七寶飾具勾玉及小玉等發見セラレ石室ノ構造ト共ニ稀觀ノモノニ係ル
平成26年 追加指定・名称変更
牽牛子塚古墳は、大正2年、佐藤(さとう)小吉(こきち)・高橋(たかはし)健(けん)自(じ)らによって墳丘や埋葬施設の測量調査が実施され、さらに大正3年に、阪合(さかあい)村(むら)役場による、木柵等の設置に伴う保存工事が実施された。その際に、漆棺、装飾品、人骨などが出土し、この古墳の重要性が認識されることとなった。そして、丘陵に築造された円墳で、巨大な凝灰岩を刳(く)り抜(ぬ)き、内部は中壁によって二房に分かれるという特殊な構造で、出土遺物も非常に貴重であることから、内務省により大正12年3月7日、史跡に指定された。
その後、石槨内に雨水が滞水することから、昭和52年度、明日香村教育委員会は環境整備事業の一環として発掘調査を実施した。その結果、埋葬施設は刳り抜き式の横口式石槨で、墳丘は版築(はんちく)による終末期古墳で、夾紵(きょうちょ)棺(かん)片、ガラス玉、七(しっ)宝飾(ぽうかざり)金具(かなぐ)、人骨、歯牙などが出土した。そのうち歯牙については、計測値から女性の平均値に近く、年齢は30から40代であることが判明している。
そして、平成21年度から23年度にかけて、明日香村教育委員会が、この古墳の範囲と内容を確認する発掘調査を実施したところ、墳丘は対辺長約22m、高さ4.5m以上の八角形墳で、墳丘の裾部には、二上山(にじょうざん)凝灰岩の切石が敷き詰められていた。この石敷の西側には、花崗岩などの河原石を敷き詰めた二重の石敷があった。埋葬施設である横(よこ)口式(ぐちしき)石槨(せっかく)についても、二上山の流紋岩質凝灰角礫岩であることがわかった。石槨の開口部には凝灰岩の閉塞(へいそく)石(せき)(内扉)と石英安山岩の閉塞石(外扉)がある。さらに、石槨の周りには、直方体の石英安山岩の切り石が囲んでいた。出土遺物としては、夾紵棺片、ガラス玉があり、築造年代は7世紀後半頃と考えられる。
さらに、この古墳の範囲を確認している段階で、東南側に新たに横口式石槨の存在が確認され、越塚御門古墳と命名された。墳丘はほとんど残存していなかったが版築の痕跡は確認された。石槨の石材は、周辺の貝吹山(かいぶきやま)周辺で採れる石英閃緑岩の巨石を使用した南に開口する刳り抜き式であった。規模は、内法長約2.4m、幅約0.9m、高さ0.6mで、石槨の前面には長さ4m以上、幅約1m、高さは現状で約20~30cmの墓道が設けられ、暗渠(あんきょ)排水溝も伴った。出土遺物には漆膜片、鉄製品などが出土している。築造時期は7世紀後半頃と考えられるが、牽牛子塚古墳の造成土を掘り込んで越塚御門古墳の墓坑が築かれていることから、牽牛子塚古墳の方が早く築造されたことがわかる。
越智(おちの)岡(おか)の一角に所在する牽牛子塚古墳が、大王墓にも多く採用される八角形墳であり、その周辺に新たに終末期古墳である越塚御門古墳の存在が確認された。これらは、終末期古墳の様相を知る上できわめて重要である。また、『日本書紀』天智天皇六年二月条の斉明天皇・間(はし)人皇女(ひとひめみこ)合葬(がっそう)陵(りょう)の前に大田(おおたの)皇女(ひめみこ)を葬ったという記述との関係も想起される。よって、牽牛子塚古墳の新たに発見された墳丘部分と越塚御門古墳を追加指定し、名称を「牽牛子(けんごし)塚(づか)古墳(こふん)・越塚(こしつか)御門(ごもん)古墳(こふん)」に変更し、保護の万全を図ろうとするものである。