熊野参詣道は、熊野三山、すなわち熊野本宮(熊野坐神社)、新宮(熊野速玉大社)、 那智(熊野夫須美神社・那智大社)の三社に参詣する道で、院政期には紀伊路と伊勢路があった。中世において最も利用されたのは紀伊路のうち中辺路であり、京より南下してきた熊野参詣道は、田辺で海沿いを行く大辺路と分かれ、山間を縫って本宮を目指した。院政期には、多数の参詣者が通行したが、特に上皇の参詣は多く、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回、鳥羽上皇21回、白河上皇9回、女院も待賢門院の13回とかなりの頻度で参詣を重ねている。そうした利用につれて参詣道の整備も進んだ。当時の参詣の様子は、藤原為房の『為房記』、藤原宗忠『中右記』、藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記』など多くの貴族の日記、記録に詳細に綴られているが、貴顕のみならず庶民や病者も多かったことが記されている。本宮参詣ののちは熊野川を川下りして新宮を参詣し、そののち海岸沿いに浜の宮に至り、それより再び内陸に入り那智に参詣した。その後は、新宮から熊野川を上って本宮に至る来たときと逆の行程を辿るか、大雲取越・小雲取越を経て本宮に戻ることもあった。また、本宮から湯峰に道が通じており、湯峰の湯に入り疲れを休めた。
熊野参詣道は、古代末期より近世、近代に至るまで、貴顕のみならず一般庶民また 病苦の民衆までが熊野三山への信仰と憧憬によって歩んだ古道であり、我が国の歴史 ならびに社会・文化を知る上で欠くことのできない貴重な交通遺跡として平成12年 に史跡に指定されたものである。
今回、熊野参詣道の保存の万全を期すために、中辺路・大辺路・伊勢路と高野山か らの参詣道である小辺路、川と海浜を利用して参詣していた熊野川・七里御浜、参詣 の人たちの崇敬を集めた花の窟のうち、参詣道として良好に保存されている地域を追 加して指定しようとするとともに、従来熊野参詣道として指定されていた熊野本宮大 社旧社地(大斎原)・那智大社境内・青岸渡寺境内・補陀洛山寺境内を史跡熊野三山 とするために熊野参詣道から分離するものである。