冨家殿は建長五年(一二五三)十月廿一日の近衛家所領目録【このえけしよりようもくろく】に「京極殿領内/山城國冨家殿」と記載される龍前の私的な相伝所領【そうでんしよりよう】であった。しかし、関係史料は以外と少なく、わずかに建武三年(一三三六)十一月、近衛基嗣が北朝後光厳院から安堵された家領二五か所の一つに冨家殿を確認できる程度である。その後、冨家殿は『後法興院雑事要録』に「家門異他旧領廿五ケ所内、忠仁公以来別相伝地」というほどに意識される近衛家の家産経済を支える重要な家領の一つとして機能していたことが知られる。従来、冨家殿の規模や四至などは不明な点が多くあったが、本図の発見によって、初めて宇治川右岸に展開する冨家殿所領の実態が明らかになった。
本図は北を上にして、東から南に曲線を描いて流れる宇治川を基点にして、北方に広がる冨家殿の所領を、山は緑青、樹木は濃緑青、建物は朱、道は黄土、境は赤などの著色をもって描き、西方には黄土で描かれた大和大道や宇治橋がみえている。構図は全体が山地の描写に力点が置かれており、「楊山【やなぎやま】」「三室戸山【みむろどやま】」などの山岳名称注記を多く確認できる。山中のわずかな耕地部分には「炭山【すみやま】」「志津川【しづかわ】」「池尾【いけのお】」などの集落名が墨書されているほか、鳥居や平等院をはじめとする寺社建物を略記する。こうした名称の横には「冨家殿」という朱書注記がみえ、それらが冨家殿所領であることを明記している。また、冨家殿には田原供御所【たはらくごしよ】が付属して薪炭などを供給(『兵範記』紙背四月三日僧忠儀解)しており、冨家殿山が古くから杣山【そまやま】の性格を有する事実と併せて、本図が杣山絵図としても最古の遺品であることを示している。
本図紙背には「冨家殿山指図【さしず】」と外題【げだい】があり、紙背にはまた「万里小路大納言【までのこうじだいなごん】」「民部卿」ら六名の公卿の署名や「叡覧【えいらん】」「公文所本図之写」などの記事がみえており、本図が所領関係の訴訟を管轄する雑訴決断所【ざつそけつだんしよ】によって時の天皇後醍醐の叡覧に供された絵図の控図であったことを示している。本図の作成目的はおそらく鎌倉時代後期からの所領をはじめとする家産、家督などをめぐる争いが頻発し、極めて深刻な問題に陥っていた近衛家が、新政権の後醍醐の裁許による所領安堵【しよりようあんど】を期待してのことであろう。