内に硯・水滴【すいてき】・懸子【かけご】二枚、および墨柄・小刀・錐が納まった、かなり大振りの硯箱で、硯箱としては珍しく、被蓋造【かぶせぶたづく】りの蓋甲周縁に塵居【ちりい】と称する段を設けている。
江戸時代以前の硯箱の意匠は一般に古典文学に因んだ景物図を主としているが、本硯箱では、日・月に龍という他に類例のない特異な意匠になっている。このことは、その大きさや塵居を設けた形態、あるいは江戸時代以前では数少ない銀製水滴を具えていることにも認められる。
ちなみに日・月は長生・不老を示唆する慶賀文でもあり、蓋・身の側面、懸子に蒔絵された龍や、水滴受座の見込みに線刻された菊花とともに、天皇を端的に表徴する文様でもある。
硯箱の形式は中世以来の伝統的なものであるが、背景を省略して金・銀の薄板で日・月のみを大きく近接描写した意匠や、大胆な金貝【かながい】の用法などは近世初期的様式の特色の一つといえる。
なお小刀に刻まれた「兼廣」とは、室町時代末から桃山時代初期頃の美濃の刀工とされている。
比較的簡略な文様・技法ながら、近世初期蒔絵の特色を顕著に示すとともに、特異な形態・意匠になる厳かなる気品をたたえた硯箱の佳品であり、かつ刀工銘がある小刀を含む内容品を具備した稀少な遺例として資料的にも貴重である。