A群は、「六観音」として福王寺の草創期より伝えられたものと考えられる。これに馬頭観音立像(江戸時代)を加えた7軀について、『甲斐国史』には「七観音」と記されている。六道の苦しみを除くとする六観音の信仰は10世紀に天台宗で成立し、11世紀に入り真言宗六観音が成立した。本寺のものは、本来六観音には含まれない梵天立像が馬頭観音に代わって入っている。これは、天台宗六観音中の大梵深遠観音との名称が混乱から造形されたのではないかとみられる。こうした天台系と真言系の混淆した状況は、天台系から真言系へ移行する六観音像造の初期的な形態を示すものであり、現存する作例は非常に少なく、制作年代ももっとも早い時期に当たるものである。
B群は、本来の安置堂は不明だが、『甲斐国志 社記寺記』によると、福王寺の松寺で江戸時代に上村(現上町)に存在し、文化12年(1815)に大火により廃寺となった松雲寺という寺があり、この寺の遺像の可能性がある。男神立像、菩薩立像、女神立像、地蔵菩薩立像は、いずれも平安時代から鎌倉時代にかけて造立されており、同一の神宮寺のような神仏習合的な寺社に祀られていたのではないかと考えられる。特に男神立像は、11世紀の制作と考えられ、B群中ではもっとも洗練された優れた作行きを示し、県内の男神像としては、重要文化財の笛吹市・美和神社の大物主神に次ぐ作例である。