『甲斐国志』に年号のみ記されている当社棟札は現在所在不明であるが、幸いに、『甲斐国志』の草稿本である『甲斐国志草稿』に各棟札の原文が書写されており、その内の康永二年(一三四三)の棟札には、結縁の檀那「地頭武田一宮殿」が、「當新造立御本躰本地十一面」とある(註二)。その他の棟札(永享六年=一四三四、文明三年=一四七一、永正五年=一五〇八、天文九年=一五四〇、永禄元年=一五五八、天正二年=一五七四)を合わせ勘案すると、鎌倉時代末期から南北朝時代初期頃には、当社の整備に甲斐武田氏の一族が関わっていたことが窺われ、以後中世を通じて大檀那として社殿の建立・修理を担っていたことを知ることができる。ただ、武田氏の名は、「天正二年(一五七四)棟札にある「大旦那武田有氏丹波守」以降見られず、天正十年(一五八二)武田勝頼とともに当地の武田氏も滅んだとされている。
本件の各神・仏像類は、その様式等からして、当地を武田氏が支配していた中世の時期に、神仏習合の本地垂迹思想の下、一宮神社の本地仏たる十一面観音を中心とした信仰の中で奉納・寄進された神・仏像類と推察される。