本図の伝来について、慶長15年(1610)に当寺の十二世弘範が求めたとする裱背墨書と箱書の存在が、『瀧谷寺の文書と寺宝』(瀧谷寺 昭和59年)と『極楽展』図録(福井市立郷土歴史博物館 平成17年)において指摘されているが、現在、裱背墨書は確認できない。箱書からは弘範が箱を造ったと読み取れるのみである。一方、瀧谷寺の『校割帳』(天文16年・1547年)には、「一、浄地之部(中略)当麻曼荼羅」とあり、16世紀半ばまでには、当寺に当麻曼荼羅が所蔵されていたことがわかる。また、江戸時代に記されたとみられる「中将姫万荼羅縁起」によると、開山上人(睿憲)が醍醐寺報恩院より賜った当麻曼荼羅があったという。以上のことから、本図が睿憲将来かは不明だが、『校割帳』に記される当麻曼荼羅に該当する可能性が高いといえるだろう。