3. 資産の内容

a) 歴史

[厳島神社の起源]
 厳島は、本州と四国に挟まれた瀬戸内海西部の多島海のうちにあって、標高 530mとひときわ高い瀰山を擁し、その山容のために古来より信仰の対象として周辺の人々が崇めてきた神の島である。
 古くは瀰山を中心とする島全体をご神体とし、それを遥か離れた場所から拝むことから信仰が始まり、次第に島の水際にも社殿が形成されていったものと考えられる。神社の創建は 593年(推古元) と伝えるが、はっきりと歴史の舞台に登場するのは811 年(弘仁2) 以降で、「日本後記」に「伊都岐嶋神」が名神に列せられ、皇室から幣が奉られるようになったことなどを記す。以来、平安時代を通じて、安芸の国の著名な神社として知られるようになる。

[平清盛による造営]
 厳島にいつごろから社殿の建築が始まったかについては全く不明であるが、1168年(仁安3) 、神主である佐伯景弘が社殿の造営を行ったことを朝廷に報告している文書がある。そのなかで景弘は、今回の造営では神殿などの建物の規模を大きくし、板葺の建築物の一部を檜皮葺に改めたとしている。この造営が当時の権力者である平清盛の後援を受けて行われたことは間違いなく、また、その後の厳島神社の社殿規模や配置の基準となったものと考えられる。
 清盛は、保元・平治の乱における戦功とその後の中央政界における昇進を厳島神社の信仰の賜物と理解し、神社を平家一門の守護神として位置づけ、益々崇敬を深めた。彼は、彼の生涯における政治的な節目には必ずと言ってよいほど神社に参詣している。
このとき造営された社殿は、鎌倉時代に入り、1207年(建永2) に火災で炎上し、8年後の1215年(建保3) に再興されるが、1223年(貞応2) に再び焼失する。その再興はやや遅れ、1241年(仁治2)に至ってようやく竣工した。
現在残る主要殿舎はこのときに造営されたものである。

[その後の造営]
 社殿が大規模壮麗になったことにより、神社全体を一時期に造替することは困難となったようで、この後は部分的な補修や建て替えにより社殿の維持が図られるようになる。それでも、鎌倉時代には幕府の庇護があったが、室町時代になると前代のような国家的援助はなくなる。元来、厳島神社は海上に建つという立地条件から、しばしば風水害を受けたが、時々の権力者や在地の有力者の崇敬を集め、その都度復旧されている。そればかりでなく、従来の社殿以外に新たな建造物も付け加えられ、社頭景観が形成されていった。すなわち、1407年(応永14)に五重塔が建立されたのをはじめ、1523年(大永3) には多宝塔、1556年(弘治2) には摂社天神社本殿が建設された。桃山時代に入ってからも、1587年(天正15)に末社豊国神社本殿(千畳閣)が新たに造営された。
 社殿の修造では、末社荒胡子神社本殿が1441年(嘉吉元) 、摂社大元神社本殿が1523年(大永3) に建て直され、本社本殿は1569年(永禄12)に起きた流血事件により本社社頭が汚されたとして、1571年(元亀2) に再建された。
 また、摂社客神社は1430年(永享2)から1433年(永享5) にかけて改修された。
大鳥居はしばしば倒壊したことが記録に見え、1547年(天文16)の再興に際して現状のように控え柱をもつ形式に改められた。その後も何度かの造替があるが、最後は1850年(嘉永3) に大風で破損した後、1875年(明治8) に再興したのが現在の大鳥居である。

[厳島の庶民化]
 厳島は瀬戸内海の商業・交通にとって要地を占めるところから、室町時代後期にはすでに、島内で市が立つようになり、市街地も発達していた。厳島神社は各時代の権力者から崇敬を受けてきたが、近世になると空海が開いたとされる瀰山山頂付近の寺院も民間の信仰を集め、参詣する民衆の往来が頻繁となった。参詣の人々とともに当代一流の役者が島内の行事に出演するなど、都会からの洗練された文化ももたらされた。
 こうして古代の御神体としての神聖な島から、一般民衆も参詣する開放的な信仰の島へと徐々に脱皮していったと考えられる。庶民による厳島詣が盛んになるにつれ、瀰山の山腹を背景として、海岸から海上へと展開する厳島神社社頭の景観は、わが国でも出色の景勝地として評判をとるほどの名所となり、すでに江戸時代中期には日本三景のひとつとして賞賛されるようになっていた。

[近代(19世紀以降)の保護と特色]
 厳島神社は、他の多くの神社と同様、平安時代以来、神道と仏教の思想が接触・融合した神仏習合の時代が続き、神社社殿以外にも多くの仏教建築物が建築された。近代に入り、1868年(明治元) 「神仏分離令」により、全国の神社において仏教的要素が排斥されたのと同じように、厳島においてもこれら仏教建築の多くが破壊され、社殿の朱塗りを剥がして素木にするなどの変更が加えられた。しかし、幸い五重塔、多宝塔、末社豊国神社本殿(千畳閣)は残され、特徴のある社頭景観をとどめることができた。
 その後、文化財保護思想の高まりと1897年(明治30)に「古社寺保存法」の制定にともない、1899年(明治32)から1910年(明治43)の間に厳島神社の主 要な建築物は特別保護建造物とされ、1901年(明治34)から1919年(大正8) にかけて順次、国庫補助金の交付を受けて保存修理工事が実施された。また、1949年(昭和24)には摂社大元神社本殿と宝蔵が国宝保存法の下で国宝に指定された。
 これに先立つ明治維新直後、1873年(明治6) の太政官布達に基づき、厳島神社の背景をなす瀰山一帯の地域が日本最初の公園のひとつとして開設された。この「公園」は、三大都市など人口集積地を中心として全国各地の由緒ある景勝地や名所など、以前から人々が群集し、遊観の場としていたところが選定されたもので、日本三景として称えられた厳島神社の独特な景観が評価されたものである。このときの公園の地域がその後の国立公園及び都市公園として現在に引き継がれている。
 また、1923年(大正12)には、歴史的風致の保全を目的として、「史蹟名勝天然紀念物保存法」により厳島全島と神社前面の海域が史蹟及び名勝に指定された。1950年(昭和25)には、全島が瀬戸内海国立公園に指定された。
 文化財保護のための法律は1897年(明治30)の「古社寺保存法」が1929年(昭和4)に改正されて「国宝保存法」となり、1950年(昭和25)に周辺の関連法令を統合して再び改正され、「文化財保護法」の制定をみた。自然の風景地を保護する法律として、1931年(昭和6) に制定された「国立公園法」は1957年(昭和32)「自然公園法」になった。
 厳島神社の主要建造物は、この「文化財保護法」による国宝もしくは重要文化財に、また厳島と神社前面の海域は同法による特別史跡及び特別名勝並びに「自然公園法」に基づく国立公園に、瀰山山頂付近の原始林は同法による天然記念物及び「自然公園法」に基づく特別保護地区にそれぞれ指定され、引き続き国による保護の措置が講じられている。

付属資料4
厳島歴史年表


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