c) 保存修復の歴史 i)建造物に関する近代以降の保存修理

 文化財保護を目的とした近代の保存修理は、「古社寺保存法」の制定された1897年以降継続して行われている。
 推薦する文化資産に所在する建造物の修理工事は、専門技術者のいる京都府、滋賀県が所有者から受託して行っている。現在、京都府には教育庁文化財保護課に17人の修復建築家と12人の伝統的な木工技術を持つ職人が所属し、滋賀県には、教育庁文化財保護課に7人の修復建築家が所属している。
 なお、修理方法は破損の程度等によって次のように分類される。
 
(1) 根本修理
 建物全体に破損が及んでいる場合、建物を一旦解体して破損部材の補修や必要最低限度の取り替えを行い、元の部材を、元の位置に、同じ工法で再び組み立てる修理である。解体に伴う学術調査によって復原等現状変更の可能性のある修理であり、建物の全部材を解体して行う「解体修理」と、軸部材は解体しないままで行う「半解体修理」とがある。工事期間は平均3ヵ年である。
 根本修理の場合には、修復建築家が現場に常駐して詳細な調査、設計、監理にあたる。
 
(2) 維持修理
●部分修理
 局部的に破損が生じたときに、破損部分を修理する。
●屋根葺替
 瓦、檜皮など屋根葺材が破損したとき、部分もしくは完全葺替を行う。瓦の場合は可能な限り当初材を再利用する。
●塗装修理
 彩色、漆などが破損、退色したとき維持的に修理する。なお、美術的価値の高い当初の壁画等については剥落止め等を施して保存する。

 木造の建造物が文化財としての価値を失うことなく適正に保存されるためには、定期的な維持修理を繰り返し実施していくことが基本であり、これによって伝統技術や材料の伝承が図られる。
 維持修理の周期については、素材の耐久性や気候、環境によって異なるが、屋根葺替を例にとると、檜皮葺の場合約30年、瓦葺の場合約60年が目安となっている。

 また、保存修理工事の記録として、
(1) 保存図(修理前図及び修理後図、平面図・立面図・断面図・詳細図、ケント紙に烏口で墨入れ)
(2) 写真(修理前、工事中、及び竣工写真)
(3) 野帳(破損状況や伝統的技法調査等の各種調査記録)
(4) 摺拓本(絵様等の記録)
 を作成しており、解体修理をはじめとする大規模な修理の場合には、これらを取りまとめ、修理工事報告書として刊行している。
 
 推薦対象となる建造物の文化財保護を目的とした保存修理工事は、付属資料11 保存事業年表に示すとおりである。
 ここでは、修理工事において行われた調査の成果のうち、建築史学のみならず日本の文化史上特筆されるものについて、その概要を以下に示す。

(1)平等院鳳凰堂の修理(1902〜1906及び1950〜1957)
 鳳凰堂は明治修理、昭和修理の2回大規模な修理が行われている。明治修理は1902年から1906年まで5年間にわたるもので、中堂裳階、左右翼廊及び尾廊は解体修理としたが、中堂については彩色等の装飾を保持することに重点が置かれ、軸部の解体は行われず屋根小屋組の補強が行われた。
 しかしながら、小屋組の補強は建物の実情に合わず有効に働かなかったことと、基礎構造に根本的な欠陥があることが判明したため、昭和修理が1950年から1957年にかけて解体修理として行われた。
 この修理は、学識経験者からなる専門審議会、修理委員会の指導、助言のもとに、基礎の補強、平安時代の屋根小屋組構造の解明とその復原及び補強方法の検討、建築彩色の技法調査と永久記録のための復原模写が実施された。これによって平等院鳳凰堂は1053年の創建当初の姿に復原された。

(2)醍醐寺五重塔の昭和修理(1954〜1960)
 醍醐寺五重塔の修理工事は1954年から1960年まで行われた。工事中の調査により建立から約千年の間に合計13度の修理を受けていることが判明した。このうち、1765年から1771年にかけての修理においては建物を全面的に解体し創建当初の技法を広範囲にわたって改変していたことが判明したため、昭和修理によって変更された部分が創建当初の姿に復原された。
 また、初重内部の建築彩色の文様は剥落止めや復原模写が行われ、天井板からは創建当時の落書を発見している。
 
(3)慈照寺東求堂の解体修理(1964〜1965)
 東求堂の解体修理は1964年から1965年にかけて行われ、発掘調査をはじめ、建築部材の綿密な調査が行われ、これに基づいて創建時の状態に復原された。
 日本の上流社会の住宅は寝殿造から書院造への変化としてとらえられているが、1485年の建立である東求堂の創建当時の姿が明らかになったことにより、書院造の初期的姿が実際の遺構により明らかになったことは大きな成果である。
 
(4)二条城二の丸御殿大広間と本願寺書院の昭和修理(1954〜1959)
 保存修理の際に行う調査において建物の建立年代が判明し、いわゆる通説が覆されることが少なくない。その一つにそれまで16世紀に成立したと考えられていた17世紀初頭の書院造にみられる絢欄豪華な表現の成立時期がある。
 このころの書院として代表される二条城二の丸御殿大広間と本願寺書院の対面所の持つ共通の室内意匠、すなわち床の間・違棚・付書院・帳台構を備え、壁面全体を金地極彩色の障壁画で飾り、格天井を文様でうめ、極彩色の欄間彫刻で飾るという意匠は、桃山時代(1563〜1613)の建築とされてきた。
 ところが、修理時に行う建築部材に残る痕跡調査から、二条城二の丸御殿は1601年から1606年にかけて造営されたものを1624年から1626年に造作を全面的に改めたものであり、本願寺書院の対面所は1618年に建てられたものを、寛永期(1624〜1644)10年間に複数の建物を移築して接合し、ほとんど新築に近いまでに装飾し直したものと考えられるようになった。
 すなわち両建物の現在みられる姿、すなわち絢欄豪華な表現をみせる書院の完成は江戸時代初期と認められることとなった。
 
付属資料11 保存事業年表
 11(1) 建造物保存事業年表(1898-1936年)
 11(2) 建造物保存事業年表(1936-1957年)
 11(3) 建造物保存事業年表(1957-1968年)
 11(4) 建造物保存事業年表(1968-1979年)
 11(5) 建造物保存事業年表(1979年-)
付属資料12 保存事業完了建造物等配置図
別添参考資料4 「国寳 平等院鳳凰堂修理工事報告書」
別添参考資料5 修理工事図面


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