雨の海

絵画 日本画

  • 小野竹喬  (1889-1979)
  • オノ、チッキョウ
  • 昭和27年 / 1952
  • 彩色・絹本・額・1面
  • 87.0×121.0
  • 左下に落款、印章
  • 8回日展 東京都美術館 1952

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小野竹喬《雨の海》

一九五二(昭和二十七)年
絹本着彩 額装
八七・〇×一二一・〇Cm
第八回日展(一九五二年)
東京国立近代美術館

「しみじみとした」とか「心に惨み渡る」といった言葉で語られる小野竹喬の作品の特質は、互いに異を認め合った友人、土田麦僊の絵画の新しさとの対照において見えてくる。
国画創作協会が結成された一九一八(大正七)年、すでに文展は、皮相な技巧と表面的な形式に走ったつくり絵の場と化していた。そうした美術界を打破して時代を動かし、新しい絵画の創造を目指した麦僊の存在は、同協会の歴史的な革新性を際立たせる。作品もまた斬新さにおいて近代的でもある。いわば「時代」を創造的に生きた麦僊に対し、表立つ歴史よりは「日々」の、自然との交感に生きた竹喬は、人間的な真情を踏みにじる虚飾に対して異を唱えた。
瀬戸内海に臨む鷲羽山の宿から眼の前の海を描いた《雨
の海》に、画家は言葉を添えている。「雨となった一日は、海面にただよう油がところどころに寄り合って、いろいろの形の文様を作っている。その面の鈍い光り、その面白さ」と、その文様を描いたというのでもなさそうだ。細雨の降り注ぐ海の色に苦心したと言うように、画家が意を傾けた海面は、塗られた色面ではなく、細筆で描かれている。さらに、「異常な面白昧を感じてこれを写しとるのであるが、其の感興の中には常人の計り知る事の出来ない境地がある。此の境地は作者一人の所有しているまことに絶対の尊さなのである」と聞けば、まさに禅の境地にほかならない。要するに、眼を文様に奪われていたとき、海がその視覚的な表面を脱ぎ捨て、彼を包み込むかのように開かれてきた、そんな主客合一の体験が語られているものと読む。
「凪いだ海の、とろんと油のような面など、まことに面白いのだが、絵にしてみると表現に苦労する」と語るとおり、海面をつくるのではなく、細筆で削り取るように描くことで表立つ視覚性を曖昧にする。眼に飛び込んでくるものとの息を呑む対峠とは対照的に、竹喬の絵は、見ているうちにほどけてきて、息の吐ける、自然とひとつになるような境地に運ぶ。菱田春草によって「心意的自然」に開眼した竹喬は、自然の視覚性を割り引くことで、情感に道を開けたのである。竹喬にとって絵画とは、自然と人間とのあいだにあって、自然の、表立つ視覚性を濾過するフィルターのようなものではなかったか。視覚性を絵画的に造形した麦僊の存在を受け止めながら、自然に殉じ、風景一筋に生きた竹喬は、日本画の写実性の限界を認めたうえで、実在感の表現方法を見出さなければならなかったのである。伝統的な移ろいの美学とも一線を画した竹喬の絵に、翳りはない。
小野竹喬は一八八九(明治二十二)年岡山県笠岡市に生まれる。一九〇三年京都に出て竹内栖鳳に入門、一九〇七年第一回文展に入選、一九一一年京都市立絵画専門学校を卒業。一九一八年国画創作協会の結成に加わる。一九二一‐二二年、麦僊らとヨーロッパを旅行。同協会解散後、一九二九年官展に復帰、一九四七年帝国芸術院会員となる。戦後は母校で教えた。一九七九(昭和五十四)年に歿。(市川)

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