嬉野氏は平安時代以降、杵島・藤津地区を本拠に活躍した一族で白石氏を名乗っていた。鎌倉時代には蒙古襲来絵詞に白石六郎通泰として登場する。このころから宇礼志野(嬉野)氏を名乗っている。近世初期以降数家に分かれた。
現在の鹿島市能古見浅浦地区を近世初期から知行していた嬉野氏(以下「浅浦嬉野氏」と仮称する)もその分かれた家の一つである。嬉野氏の各家に残る系図にはいくらか異同があるが、浅浦嬉野氏に残る系図によれば、浅浦嬉野氏の始祖は嬉野通益であり、法名を自雲元可居士という。この人物は多くの資料では嬉野元可として登場するが、浅浦地区では現在でも「元可さん」として親しまれている人物である。
浅浦嬉野氏は現在(平成23年)まで15代の当主によって継続している。墓地は現在に至るまで浅浦地区に営まれているが、浅浦嬉野氏は江戸時代には佐賀鍋島家で175石から350石の禄高が与えられた家臣であり、歴代の当主は佐賀に居住している。
嬉野氏が浅浦の地を知行することになった理由については、元可が元和2年(1616)に東嶋市佐あてに送った「鳥坂村知行由来書」のなかで、嬉野元可は、「自分は初め有馬氏の旗下に加わっていたが、讒言にあって牢人し、鳥坂村(現在の浅浦地区を中心とする地域)に住居を構え数年難儀していたところ、竜造寺側から味方になるよう使いがあり、肥前国は残らず佐賀領になるのが国の定めと考え、竜造寺側に付くことにした。竜造寺側が藤津郡全部を手中におさめた後、竜造寺隆信から本領の嬉野村を拝領させるとされたが、牢人の間鳥坂村の村人に非常に世話になり、それに対して報いたいので、本領の嬉野村よりも鳥坂村を知行したいと申し出て、許されて鳥坂村70町を知行することになった。」と述べている。
嬉野元可は、この書状でもわかるようにこの浅浦の地に対して非常に愛着があり、自ら希望してこの地を知行している。浅浦の元光寺に天保2年(1831)に有田の町人経済学者の庄司孝棋が記した「元可神廟碑」が建っており、碑には元可が領民を安堵し産業をすすめ、遊惰を退けたので、百姓はその仁徳を感じ敬愛したことが記されている。