文化年代(1804~1817年)、長寿寺第七世、宝山道林和尚の代に松江の石工文助の手により旦那中が願主となり建立されたものとされている。明治元年神仏分離令が施行とともに廃仏棄釈が行われ、この延命地蔵も暫く落合の東長田川に沈められていたのを明治中期に再建したと語られている。そのため、損傷がひどく台石の刻文も判読できず、その由来を知ることが出来ない。かつては、台座石垣の四隅に四天王の像を描いた川石がすえられていた。また基礎は金剛経の一部を墨書きした百個の川石でできていた。再建以来大正中期まで、その温容な姿に近在はもとより遠く出雲からも参拝者があり、縁日である8月24日には大変な賑わいであった。昭和43年の県道拡幅工事の際、道路西側東向きの地蔵を東側西向きに移転し、台座も補修されている。