絹本著色仏涅槃図
けんぽんちゃくしょくぶつねはんず
絵画 / 江戸
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東皐心越
- 山梨県
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江戸前期 / 1689
- 本図の画絹は、通常の絵絹と違い経緯同じ太さの絹糸で織られ目の詰んだ良絹である。
本図は画面中央、宝台に横臥する釈尊を宝台の向って短側面が見える上方から見下す視点で描かれる。釈尊は右脇を下にし右手を差し伸べ左手を左脇に添える。この右手を差し伸べる釈尊の姿態は、平安仏画のように上向きで両手を体に添えて横たわる系統のものや鎌倉時代以降に多く見られる右脇を下にし右手で手枕し両膝を「く」の字に曲げる流布本と異なる。本図の如く右手を差し伸べるのは原本が平安初期に遡るとみられる石山寺本系統のものに近い。
釈尊の横臥する宝台の周囲に仏弟子はじめ十八羅漢、八部衆、八大竜王、仁王、四天王、王侯貴紳、婦女子、俗人など多くの会衆(72軀)が取り囲み、その中に福禄寿、孔子、水瓶を捧持する朱衣の達磨大師が描き込まれるなど特色がみられる。
画面上辺の上隅には雲に乗り阿那律尊者に先頭される摩耶夫人の一行が描かれ、上辺真中に飛翔する飛天、迦陵頻伽、鳳凰、鸞が描かれる。
画面の下辺には海浜が描かれ、海中には実在の魚介、鳥類に混ざり、怪魚、龍なども描き加えられている。陸上には見慣れた多数の動物、小さな昆虫類などに加え、伝説上の麒麟、神獣の一角獣なども描かれるが、涅槃図では珍しい猫も描き添えられている。
四方の沙羅双樹の枝には多くの鳥類が止まり、飛翔する体が1つで頭と心2つもつ珍鳥の共命鳥も描き加えられている。
なお、本図に描かれる生類の数は高田祥平氏の調査によると次の通りである。
水面にいる水棲 100種(海藻類は除く)
地面にいる動物 34種
樹間にいる鳥類 62種
そのほかの生類 43種(草花類は除く)
総計 239種
北に位置する沙羅双樹の枝には釈尊の持物である鍚杖と僧伽利衣(袋包)が懸けられている。
釈尊の描写は悉皆金色身で顔、手足に金泥を塗布し、朱墨線で括り、頭髪、髭鬚は群青で表わす。着衣の直線には截金を置き、文様は金泥で描く。
彩色は鮮やかな良質の顔料が使用され、金泥は会衆の持物、装身具、着衣の文様及び沙羅双樹、太湖石に部分的に掃かれ使用されている。
描写表現は丁寧で細かく、正確で上筆とみられる。
画面の左上隅に二代水戸藩主徳川光圀の賛文と右下隅に筆者である東皐心越の落款と印章二顆が捺されている。
- 縦366.4㎝ 横199.7㎝
- 1幅
- 山梨県南巨摩郡身延町身延3567
- 身延町指定
指定年月日:20190329
- 久遠寺
- 有形文化財(美術工芸品)
本図は釈尊が涅槃に入る情景を描いた仏涅槃図である。本図は、画面左上隅に墨書された第2代水戸藩主徳川光圀の賛文から、光圀が生母の追善供養のために新しい図様を決め、明からの渡来僧東皐心越が描いたことが知られる。ちなみに画面右下辺に小さく筆者である東皐心越の落款・印章二顆が捺されている。
本図は現在欠失があるが、巻止に72世日薩師の周旋で、光圀が生母のために建立した久昌寺に納められ、明治11年3月74世日鑑の代に表装されたことが書き留められている。この経緯から本図は明治初年の廃仏毀釈が断行されている最中、久昌寺も荒廃したため日蓮宗の総本山久遠寺に移され奉納されたとみられる。
元来、光圀の生母久昌院は日蓮宗を篤く信奉しており、光圀自身も当時の身延山法主第31世日脱上人と親交があり、その縁で久遠寺に伝えられることになった。
他方、筆者である東皐心越は、浙江省金華府蒲江で蒋家の次男として生まれ、若くして曹洞宗寿昌派の祖師・高僧に師事し、研鑚修道を究める傍ら清朝に抵抗し明朝を盛り立てる「反清復明」を抱く義僧として活動参戦するなか、隠密裏に日本に緊急亡命する。康熙15年6月に寧波を出航し、翌年延宝5年正月長崎に上陸する。以降、日本国内での行動は、唐僧であるが故に江戸に入ることができなかったこと、長崎では黄檗派との対立で幽閉されるなど苦難が続く。しかしながら、東皐心越の「人格学徳の高い」ことが、光圀の聞き及ぶところとなり、光圀の支援で江戸の水戸藩上屋敷に住まわされ後に水戸に迎えられることになった。時に天和2年冬のことで心越が示寂する元禄8年9月までの13年余り水戸を中心に活躍することになる。
心越は絵画のみならず詩文、書道、古琴、篆刻の五絶を善くした文人僧でもあった。
本図の仏涅槃図は、光圀の賛文にあるように光圀自身が決めた「新様」で描かれているが、当然に筆者心越の思想によるところもあろう。画面の下辺に海浜を配し、陸地・空中に生きとし生けるもの、それに加えて空想上の生きものさえ描き込み、すべてのもの皆が釈尊の入涅槃を悼むが如く、まさしく『涅槃経』に説く「一切衆生悉有仏性」の意趣を汲み取り一図に描き示したものといえる。
涅槃図に描かれる跋提河でなく海を配する構図や褶曲の強い沙羅双樹の描法など明の呉彬筆仏涅槃図に近く、心越はその仏涅槃図を長崎で実見していたのかもしれない。