『高岡銅工ニ答フル書』

たかおかどうこうにこたうるしょ

概要

『高岡銅工ニ答フル書』

たかおかどうこうにこたうるしょ

歴史資料/書跡・典籍/古文書 / 明治 / 富山県

林忠正  (1853~1906)

はやしただまさ

富山県高岡市

明治19年/1886年

紙本墨書

縦27.3cm×横19.0cm

1冊(「林忠正草稿」用箋17枚綴)

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-07-01-10

高岡市立博物館蔵

高岡銅器の名工・白崎善平は輸出の不況を憂い、パリの林忠正に対策の教示を請うた。忠正は高岡出身で、西洋と日本との美術文化交流に寄与した美術商。本資料はそれに答えたもので、世界的視野から当時の日本美術工芸の傾向及び海外輸出の現況を分析し、「西洋人の『用』を考えた機能と形態の重視が必要である」などと助言している。そして末尾には、生まれ故郷である高岡を離れ15年が過ぎたが、未だかつて一日も故郷の人々を忘れたことはなく、常に思ってやまないとしている。この機会は私と兄が初めて東京に旅行した際にお世話になった白崎に対して、そして全ての職人のためになれば私の幸せはこれ以上のものはない、今後も高岡工芸のために努めて努力したく存じます、としている。

 本書はその成立に至るまでに幾つかの段階を経ている。忠正がパリで三日徹夜して書き上げた原本は、その題を『高岡銅器維持ノ意見』(以下、原本)といい林家に伝世している。それは文体がやや書生風で意味が不足しているところもあり、中には誤解する人もいるのではと案ずる忠正の依頼で、「旧師笹原両先生」の推敲を経て、忠正の弟らにより何冊か浄写されて白崎をはじめ親戚などに配布された。本書はそのうち、忠正の実家である長崎家に伝わったものである。また「旧師笹原両先生」とは高岡の教育家・笹原(のち原と改姓)北湖(雀斎)・権九郎(遂初)父子のことと思われ、この推敲により全体に表現が極めて穏便に変更されてしまっている。
 また、「答フル書」は龍池会(日本美術協会の前身)会員・山本五郎により、『龍池会報告』第20号(明治20年1月20日)、同第21号(同年2月20日)に2回分載されている。
 木々康子氏の解説(木々2022)によると、まず忠正は原本で高岡銅器業界全体の生産・経営の問題として種々指摘しているが、「銅工」と一個人白崎への返書へと矮小化されてしまった。当時忠正は日本美術の将来に大きな危惧を抱き、有栖川熾仁親王、伊藤博文や吉原大蔵次官などに進言していた。笹原父子はその具体的な名を全て削っている。
 そして原本では、不況は高岡のみならず日本全体の状況であること。ただ闇雲に作るのではなく、西洋人の生活・好みをしっかりと研究し、生活の中の工芸品から観賞用の芸術品まで多様な彼ら(特に富裕層)のニーズを調査し、それに対応すべきこと。また、西欧では職人・商人を援助する銀行・問屋・仲間組合などがあるが、それが整備されていない日本では製作・営業の価格計算をしっかりとすること。そして、適正な価格で販売すること。そして、デザインや色、モチーフなど具体的な指摘など、高い見地から32条にわたり助言をしている。
 また白崎は良いとする図面を送ってほしいと申し出ている。しかし忠正は他人の図に依拠することは悪いことで、これは工人の害となるだけですので送りません。しかし、私が精神を尽くして書いたこの書が高岡工人のために述べるところは、将来のために100枚の図にも優れるでしょうと信じていますとし、フォルム、デザインについて懇切丁寧に説いている。
 「忠正は美術は工芸品の上等のものではなく、美を主とするか、用を兼ねるかによって、美術と工芸とを区別すべきであり、ただ売れそうなものを闇雲に作るのではなく、その用途をはっきりと弁えて制作し、輸出すべきことを詳しく、理論立てて述べている。」(木々2022)。
 続けて忠正は「将来を展望して原因を究明し、正し、進歩しようとする人をみたことがない」とし、国際感覚もなく、漠然と輸出に取り組む故郷の人々を強く批判している。
 木々氏は「高岡の人たちは、当時のパリでは、日本美術が中国と混同され曖昧な認識であったことも、日本の文化と西欧の日本に対する認識の落差を正確に分析することが出来る人は、林忠正以外はいなかったという事実も知らない。西欧社会における美術政策や産業・流通・経済の仕組みの近代化を目撃し、革新的な芸術家たちが堅固な古典的美術観と闘う日々を共に体験し、また渡仏してくる要人たちに「美術問題」を国家の根幹との関係から訴えていた事実と、それによる、林忠正という個人への高級官僚たちの信頼も知らないのである。」としている。

《参考文献》木々康子・高頭麻子『美術商・林忠正の軌跡 1853-1906 ー19世紀末パリと明治日本とに引き裂かれて』(藤原書店、2022年)。※本書には原本『高岡銅器維持ノ意見』の現代語訳も収録


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【林 忠正】はやし ただまさ
  1853・12・7~1906・4・10(嘉永6・11・7~明治39)
 明治期に西欧との文化交流に尽くした先覚者。高岡一番町(現高岡市)の蘭方医長崎言定(げんてい)の2男として生まれる。幼名重次(志藝二/しげじ)。1870年(明治3)10月富山藩大参事林太仲の養嗣子となり林忠正と改称。直ちに上京して村上英俊の〈達理堂〉でフランス語を学び,翌年藩の貢進生となり大学南校に入学。東京開成学校を経て東京大学に進む。専攻は理学とフランス語。78年1月卒業を半年後に控えて大学を中退,パリ万国博の通訳としてフランスに渡る。博覧会終了後に起立工商パリ支店に入社したが,83年1月独立して美術店を開く。渡仏の目的は理工学の研究だったが,ジャポニズム興隆の波の中で自然に日本文化の伝達者の役割を負わされ,モネ・ドガ・リヴェール・ゴンクール・ゴンス・ビュルティーら印象派の画家や進歩的文学者らと深く交流し,美術商兼評論家として活躍。浮世絵や美術工芸品を大量に輸出し印象派の発展やアールヌーボーの成立に寄与したことは有名である。
 日本における国粋主義的美術運動に対抗して西洋画の推進を図り,明治美術会や黒田清輝の活躍を援護した。さらに東京に西洋美術の美術館の設置を政府に働き掛け,自らも西欧近代美術を収集し日本に初めて印象派の絵画を紹介したが,宿願の美術館建設は果たせなかった。伊藤博文・西園寺公望の信任が厚く,1900年のパリ万国博事務官長を命ぜられて日本文化を系統的に海外へ紹介した功によってフランス政府よりレジョン・ドンヌール勲章を授与される。05年5月帰国。国策に沿って資源開発事業などを計画していたが,翌年病没した。享年54歳。〈定塚武敏〉
(『富山大百科事典[電子版]』北日本新聞社、2010)

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