〔天正13年(1585)〕4月27日付 羽柴秀吉書状(前田利家宛)

てんしょう13ねん 1585 4がつ27にちづけ はしばひでよししょじょう まえだとしいえあて

概要

〔天正13年(1585)〕4月27日付 羽柴秀吉書状(前田利家宛)

てんしょう13ねん 1585 4がつ27にちづけ はしばひでよししょじょう まえだとしいえあて

文書・書籍 / 安土・桃山 / 富山県

羽柴(豊臣)秀吉  (1537~1598年)

はしば とよとみ ひでよし

富山県高岡市

天正13年4月27日/1585年

紙本・墨書

縦14.0㎝×横63.5㎝(全体 152.0×83.5㎝、軸長90.6㎝)

1通

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-303

高岡市立博物館蔵

本史料は羽柴(のち豊臣)秀吉が前田利家に宛てた書状である。
 天正10年(1582)の本能寺の変後、秀吉は織田信長の権力を継承し、急速に勢力を拡大していた。同12年(1584)3月、小牧・長久手の戦い(秀吉対織田信雄(信長二男)・徳川家康連合)が起ると、越中国を支配する佐々成政(※3)は当初秀吉方についていたが、同年8月、信雄を主君と奉じて秀吉に背き、能登・加賀国を領する利家と対峙した。翌9月、成政は能登末森城(現石川県羽咋郡宝達志水町)の戦いで利家・利長軍に大敗を喫し、苦境に立たされた(越後国の上杉景勝も秀吉方)。11月、小牧・長久手の戦いが終結するも、加越国境は小競り合いが続いていた。
 翌13年、秀吉は前年の戦いで自身に背いた勢力の掃討に着手する。まず3月に紀伊国の根来(ねごろ)・雑賀(さいか)一揆(紀州)攻め(※4)が行われ、次いで6月に弟・羽柴秀長を総大将に四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を征伐し、残るは越中の成政のみとなった。
 紀州攻めの戦闘は天正13年3月21日から4月23日に行われ、秀吉の圧倒的勝利で終結した。本史料はそのわずか4日後に秀吉が状況を伝えたものである。
 内容を意訳すると「雑賀の陣中見舞いの使者として前田秀継(※5)を遣わされ、加賀絹の反物・杉原紙(現兵庫県多可町産の和紙)を贈っていただき、誠にありがとうございます。雑賀の合戦は完全に終わり、昨日(4月26日)大坂城へ帰陣しました。近くそちら(越中)へ出陣します。詳しくは秀継より聞いてください。また連絡します。」となる。
 秀吉はこの段階では翌5月に越中出陣を計画していた(※6)(結局は8月となる)。近年の研究では、秀吉の越中(佐々)攻めは単なる局地戦ではなく、天下統一をねらう戦略的な構想が指摘されている。7月、関白に任官された秀吉は総勢7万人余りもの陣立状を公表した。その総大将に命じたのは旧主・織田信雄であった(秀吉自身は「越中見物に赴く」と記している)。これは新たな上下関係を広く知らしめ、越後の上杉景勝、及び徳川家康を従属させ、そして小田原北条攻めを見据えた秀吉の大規模な軍事構想の一環であったことが指摘されている(※7)。
 天正13年8月越中攻めが開始され、木舟城(高岡市)・守山城(同)・増山城(砺波市)などが占拠された。同26日、観念した成政は剃髪し、倶利伽羅峠に布陣する秀吉の許を訪れ降伏した(※8)。秀吉は越中新川郡を成政に安堵し、西三郡を前田家に与えた(のち利長が守山城主となる)。これは前田家が越中に初めて領地を得た時であり、この後越中に戦乱は起らなかった。秀吉の越中(佐々)攻めは越中の中近世移行期において極めて重要な画期といえる。
 本史料は『富山県史』通史編Ⅲに掲載され、及び同書史料編Ⅲに翻刻(※9)されているほか、巻頭図版にも掲載されている。更に以前から県内博物館等で多数の展示歴(※10)がある。また県内に所在する6通の秀吉書状のうち、越中攻めに関する唯一のものとされる(※11)。
 本史料は越中、北陸の戦国史のみならず、秀吉の天下統一の構想、及びその歩みの過程が具体的にうかがえる、全国的にも極めて貴重な史料であるといえよう。また本史料は長らく県内の個人蔵であったが、2026年4月、高岡市立博物館が収蔵した。
 また、本史料は端から58.0cm(一般的な料紙の横幅は40数㎝以上、秀吉は最大66㎝程(※12))のところで残りの5.8cmを継いでいる。よって、形態は現在継紙だが、元は折紙のものを切り、継いだ可能性もある。

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【釈文】

為在陣見舞、
同名右近被上候、
并加賀染廿端、
杉原三束被進
越候、祝着之至候、
将亦雑賀表事
悉明隙候て、昨日
至大坂納馬候、頓而
其表へ可出馬候、
委細之段者、同前
口上ニ申進候、
尚追而可申越候、
謹言、

 卯月廿七日 秀吉(花押)

 前田又左衛門尉殿

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【注】
※1 羽柴(豊臣) 秀吉(1537~98)
 織豊時代の武将。天文6年生まれ。尾張(愛知県)の足軽木下弥右衛門の子。母はなか(天瑞院)。織田信長に足軽としてつかえ、浅井・朝倉両氏との戦いで功をたて、天正元年近江長浜城主となる。本能寺の変後、明智光秀、柴田勝家をやぶり、11年大坂城を築城。徳川家康を臣従させて18年(1590)全国を統一。この間、13年7月関白・14年12月太政大臣となり豊臣姓を名のる。19年太閤。文禄元年と慶長2年の2度朝鮮に出兵するが失敗。太閤検地、刀狩りなどの新政策で兵農分離を促進し、近世封建社会の基礎を確立した。慶長3年8月18日死去。62歳。幼名は日吉丸、のち木下藤吉郎、羽柴秀吉。
【格言など】露と落ち露と消えにしわが身かななにはの事も夢のまた夢(辞世)
(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

※2 前田 利家(1538~99)
 戦国-織豊時代の武将。天文7年生まれ。前田利昌の4男。加賀金沢藩主前田家の祖。はじめ織田信長につかえる。天正11年賤ケ岳の戦いで豊臣秀吉について加賀2郡をあたえられ、居城を七尾から金沢にうつした。慶長2年権大納言。秀吉治下では五大老のひとり。民政・理財の才もあり、茶の湯・和歌にも長じた。慶長4年閏3月3日死去。62歳。尾張(愛知県)出身。幼名は犬千代。通称は孫四郎、又左衛門尉。
【格言など】武道ばかりを本とする事あるまじく候(子の利長にのこした訓戒)
(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

※3 佐々 成政(1536~88)
 尾張国生まれ。織田信長に仕えて武功を立て、天正3年(1575)、越前国府中に入る。同9年、越中に派遣され、翌10年富山城主となる。越後上杉氏と戦い、本能寺の変後に越中を平定した。同12年、小牧・長久手の戦い講和後も孤立し窮地に追い込まれ、北アルプスを踏破(いわゆる「さらさら(ザラ峠)越え」)し、浜松で家康と吉良(現愛知県)で信雄と対面するも協力を断られた。同13年、豊臣秀吉による「佐々攻め」の後、身柄は大坂に移され、領地も新川郡のみとなった。成政は、お伽衆に加えられ、秀吉に近侍していたようだが、九州島津攻めの功により、同15年、肥後一国を与えられ熊本に移る。しかし翌年、失政を理由に領地を没収され、尼崎法園寺で切腹させられた。
(富山市郷土博物館(萩原大輔)特別展『秀吉 越中出陣 -「佐々攻め」と富山城』2010年)

※4 根来(ねごろ)・雑(さい)賀(か)一揆攻め(紀州攻め)
 1585年(天正13)3~4月、豊臣秀吉が行った根来衆・雑賀衆の討伐戦。3月21日、秀吉は小牧・長久手の戦で徳川家康と結んだ根来衆・雑賀衆を討つため大坂城を出陣。千石堀・畠中・積善寺・沢城などを攻略後、23日には根来寺(和歌山県岩出市)に入るが、寺は出火によって全山焦土となった。24日、雑賀に入って一揆の棟梁土橋氏を攻め、25日には仙石秀久・中村一氏が紀伊奥郡まで平定。4月22日、太田党がたてこもる太田城(和歌山市)を水攻めで陥落させ、この間4月10日には金剛峰寺を服従させた。紀伊は弟秀長の領地となる。これによって秀吉は本拠地大坂の前後を固め、また中世以来の寺院勢力に対して近世的支配を展開することになる。
(山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」)

※5 前田 秀継(右近)(?~1586)
 前田利春の6男で加賀藩祖前田利家の弟。通称右近。利家に属し、越前府中(現福井県)で1000石を領する。1583年(天正11)4万石を領して津幡城(現石川県津幡町)におり、85年には今石動白馬山頂の今石動城(現小矢部市)に移る。さらに木舟城(現高岡市福岡町)に転じ越中攻略の中心勢力となったが、同年11月29日(新暦:1586年1月18日)の大地震のため秀継夫妻は圧死した。墓石は小矢部市矢波にある。
(北日本新聞社『富山大百科事典』下巻、1994年)

※6 天正13年5月の越中出陣計画
 (天正13年)4月2日付上杉景勝書状写(米沢市上杉博物館蔵)は秀吉から届いた手紙への返書で、秀吉は5月の越中出陣を伝えていたらしく、成政のことを「逆徒」と表現しており、協力を約束した景勝は、「越中の国境警備について前田利家と相談して対応する」と伝えている。
(富山市郷土博物館(萩原大輔)特別展『秀吉 越中出陣 -「佐々攻め」と富山城』2010年)

※7 萩原大輔「秀吉越中出陣をめぐる政治過程」(『富山史壇』第163号、2010年12月)。富山市郷土博物館(萩原大輔)特別展『秀吉 越中出陣 -「佐々攻め」と富山城』2010年。

※8 同上。

※9 『富山県史』通史編Ⅲ 近世上(昭和57年、p42)に「前田利家はこのおり(紀州征伐後/引用者注)、秀吉の在陣見舞の使者として前田秀継を遣わして、加賀染・杉(すい)原(ばら)紙を贈っており、秀吉は雑賀を占拠してしまったので、四月二十六日には大坂へ帰陣し、やがて越中攻めに行くだろうと返書している(新湊市港町 能松佐太郎氏蔵文書)」とある。
 『富山県史』史料編Ⅲ 近世上(昭和55年、p52)の翻刻(上記釈文参照)は「一二〇 (天正十三年)四月 羽柴秀吉、越中出馬の意志につき書状」との史料名が付されている。

※10 富山県内博物館等における本史料の主な出品歴。
・富山市郷土博物館「富山藩文化財展(第4年度)」(昭和54年8月31日~9月19日)、「越中の古文書展 富山県にのこる古文書・絵地図」(昭和63年9月3日~)、特別展「秀吉 越中出陣 -「佐々攻め」と富山城」(平成22年9月11日~11月14日)。
・富山県公文書館 特別企画展「戦国の動乱と越中」(平成11年10月13日~12月10日)。
・射水市新湊博物館 特別展「新収蔵品が語るもの」(平成19年1月5日~3月18日)。※同館には本史料が寄託されていた。
・富山県[立山博物館] 特別企画展「戦国武将と立山」(令和2年10月3日~11月15日)。

※11 射水市新湊博物館作成の本史料解説による。

※12 菅野正道「【レビュー】国宝の古文書から見る戦国のリアリズム「上杉家文書の世界Ⅵ」米沢市上杉博物館」(HP「美術展ナビ」)20220303。増田 孝「鑑定から鑑賞へ 人と書と歴史を探究する 文/増田 孝 第3回 手紙の形、料紙、書式」(HP「書道総合サイト|游墨舎ちゃんねる」)20220729(共に20260226アクセス)

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