林忠正著『高岡銅器維持ノ意見』
はやしただまさちょ たかおかどうきいじのいけん
概要
林忠正(※1)は現富山県高岡市一番町の蘭方医・長崎言定の次男として生まれ、パリを拠点に世界的に活躍した美術商であり、日本の美術工芸品や浮世絵などを大量に輸出し、また印象派を初めて日本に紹介するなど東西美術交流にも尽力した人物である。
本資料は「ジャポニスム」(19 世紀後半、欧州で大流行した日本の美術・工芸品ブーム)がやや陰りをみせ、輸出不振に悩む高岡銅器の名工・白崎善平(※2)がパリの林忠正に対策の教示を請い、忠正がそれに答えたものである。忠正は三日徹夜して書き上げたとある。世界的視野から当時の日本美術工芸の傾向及び海外輸出の現況を分析し、「西洋人の『用』を考えた機能と形態の重視が必要である」などと助言している。そして末尾には、生まれ故郷である高岡を離れ15 年が過ぎたが、未だかつて一日も故郷の人々を忘れたことはなく、常に思ってやまないとしている。
この機会は私と兄が初めて東京に旅行した際にお世話になった白崎に対して、そして全ての職人のためになれば私の幸せはこれ以上のものはない、今後も高岡工芸のために努めて努力したく存じます、としている(※3)。
本資料は林家に伝来した原本であるが、全体に激しく朱が入れられ校正されている。その校正による改訂版『高岡銅工ニ答フル書』(長﨑家伝来、当館蔵)もある。それにつき原本冒頭に忠正自ら記している。文体がやや書生風で意味が不足しているところもあり、中には誤解する人もいるのではと案ずる忠正の依頼で、「旧師笹原両先生」の推敲を経て、忠正の弟らにより何冊か浄写されて白崎をはじめ親戚などに配布された。「旧師笹原両先生」とは高岡の教育家・笹原(のち原と改姓)北湖(雀斎)・権九郎(遂初)父子のことである。
また、「答フル書」は龍池会(日本美術協会の前身)会員・山本五郎により、『龍池会報告』第20 号(明治20 年1 月20 日)、同第21 号(同年2 月20 日)に2 回分載されている。本資料の出品歴は国立西洋美術館にて開催された「林忠正―ジャポニスムを支えたパリの美術商」展(2019 年2 月19 日~5 月19 日)のほか、当館開催の没後120 年記念 特別展「林忠正書簡展」(2026 年7 月25 日~10 月4 日)に出品された。
ちなみに、忠正は本資料の思想を具現化した作品を高岡の名工・2 代横山弥左衛門に発注し、《菊花文飾壺》(国立工芸館蔵)を制作させ、1889 年の第3 回パリ万博に出品している。
本資料は高岡出身で世界的に活躍した忠正自らがその知見を集約した極めて貴重な史料といえる。
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【注】
※1 林 忠正(1853~1906)
明治期に西欧との文化交流に尽くした先覚者。高岡一番町(現高岡市)の蘭方医長崎言定の次男として生まれる。幼名・志藝二(しげじ)。1870 年(明治3)10 月富山藩大参事林太仲の養嗣子となり林忠正と改称。直ちに上京して村上英俊の〈達理堂〉でフランス語を学び,翌年藩の貢進生となり大学南校に入学。東京開成学校を経て東京大学に進む。専攻は理学とフランス語。78年1 月卒業を半年後に控えて大学を中退,パリ万国博の通訳としてフランスに渡る。博覧会終了後に起立工商パリ支店に入社したが,83 年1 月独立して美術店を開く。渡仏の目的は理工学の研究だったが,ジャポニズム興隆の波の中で自然に日本文化の伝達者の役割を負わされ,モネ・ドガ・リヴェール・ゴンクール・ゴンス・ビュルティーら印象派の画家や進歩的文学者らと深く交流し,美術商兼評論家として活躍。浮世絵や美術工芸品を大量に輸出し印象派の発展や間接的にアールヌーボーの成立に寄与したことは有名である。
日本における国粋主義的美術運動に対抗して西洋画の推進を図り,明治美術会や黒田清輝の活躍を援護した。さらに東京に西洋美術の美術館の設置を政府に働き掛け,自らも西欧近代美術を収集し日本に初めて印象派の絵画を紹介したが,宿願の美術館建設は果たせなかった。伊藤博文・西園寺公望の信任が厚く,1900 年のパリ万国博事務官長を命ぜられて日本文化を系統的に海外へ紹介した功によってフランス政府よりレジョン・ドンヌール勲章を授与される。05 年5 月帰国。国策に沿って資源開発事業などを計画していたが,翌年病没した。享年54 歳。
(定塚武敏「林忠正」『富山大百科事典[電子版]』北日本新聞社、2010)
当館(国立西洋美術館)の松方コレクションを作り上げた松方幸次郎は、1910 年代後半に日本に美術館が必要と考え建設を志したのですが、じつはそれより25 年も前に、同じ考えを持った人物がいました。パリで活躍した美術商、林忠正です。林忠正は、西洋で日本美術品を商った初めての日本人です。日本でフランス語を習得し、1878(明治10)年のパリ万国博覧会を機に通訳として渡仏しました。
折しも日本の美術・工芸品が大きな人気を博していた時代、万博終了後もパリに留まる決心をした林は、当地でそれらを商う店を構えます。林が日本から直接仕入れた絵画や工芸品そして浮世絵などは、彼が提供する商品に関する該博な知識と共に、西洋の日本美術愛好家たちに熱心に受容され、ジャポニスム隆盛の大きな原動力となりました。
各地で開催された博覧会への参加や自身の美術商としての活動を通じて、日本の美術・工芸品の紹介に尽力する一方、現地で美術館がもつ文化的役割の重要性を認識していた林は、日本での美術館建設を夢見て、同時代の作家を中心とする西洋美術コレクションを少しずつ充実させてゆきました。当館のコレクションの中核を形成した松方幸次郎に先立つこと実に25 年前、林はすでに西洋美術館建設を構想していたのです。しかしその構想は、林の帰国とその早すぎる死によって実現することはなく、彼のコレクションも生前・没後の数回にわたる売り立てによって散逸を余儀なくされました。
(HP「国立西洋美術館/過去の展覧会/林忠正―ジャポニスムを支えたパリの美術商」2019)
※2 白崎善平(1837~92)
彫金師、銅器問屋。高岡二番町生まれ。のち御馬出町に居住。江戸期以来の飾師系の出身で、素宝堂とも称した。明治初年に白崎屋という銅器製造販売所が活動したことが、「金沢銅器元記」に記される。単なる職人ではなく明治初期高岡銅器界の主匠の一人。明治9 年(1876)フィラデルフィア万博に賞牌を、翌年第1 回内国勧業博覧会で褒賞、同14 年(1881)、第2 回内国博で3等妙技賞を受賞し、同年から皇室御用品の制作に従事。同19 年(1886)頃に家族を東京に呼び寄せ移住。同20 年には日光廟の修理、また皇居造営に関わり、関沢卯市、関 義平、志浦善二、白崎白善(養子)ら高岡から来た職人の中心となって従事し、後進を育てた。林忠正による「高岡銅器維持ノ意見(高岡銅工ニ答ル書)」は白崎の質問に答えるかたちで高岡銅器の改善について述べられたものである。
〔定塚武敏ら編『高岡銅器史』(高岡銅器協同組合、昭和63 年)、竹内 唯編「明治金工の威風―高岡の名品、同時代の名工」展図録(高岡市美術館、令和元年)〕
※3 木々康子・髙頭麻子編『美術商・林忠正の軌跡 1853-1906 ―19 世紀末パリと明治日本とに引き裂かれて』藤原書店,2022(本書には本資料の現代語訳(松島彩華)も収録)。
本資料の寄贈者で忠正義孫、作家、そして忠正研究の第一人者である木々康子氏によると、この校正によって内容の重要な部分が大きく削除され、その価値が大きく損なわれてしまったという。まず改題について、忠正は原本で高岡銅器業界全体の生産・経営の問題として種々指摘しているが、「銅工」と一個人白崎への返書へと矮小化されてしまった。当時忠正は日本美術の将来に大きな危惧を抱き、有栖川熾仁親王、伊藤博文や吉原大蔵次官などに進言していた。笹原父子はその具体的な名を全て削っている。
そして原本では、不況は高岡のみならず日本全体の状況であること。ただ闇雲に作るのではなく、西洋人の生活・好みをしっかりと研究し、生活の中の工芸品から観賞用の芸術品まで多様な彼ら(特に富裕層)のニーズを調査し、それに対応すべきこと。また、西欧では職人・商人を援助する銀行・問屋・仲間組合などがあるが、それが整備されていない日本では製作・営業の価格計算をしっかりとすること。そして、適正な価格で販売すること。そして、デザインや色、モチーフなど具体的な指摘など、高い見地から32 条にわたり助言をしている。
また白崎は良いとする図面を送ってほしいと申し出ている。しかし忠正は他人の図に依拠することは悪いことで、これは工人の害となるだけですので送りません。しかし、私が精神を尽くして書いたこの書が高岡工人のために述べるところは、将来のために100 枚の図にも優れるでしょうと信じていますとし、フォルム、デザインについて懇切丁寧に説いている。
「忠正は美術は工芸品の上等のものではなく、美を主とするか、用を兼ねるかによって、美術と工芸とを区別すべきであり、ただ売れそうなものを闇雲に作るのではなく、その用途をはっきりと弁えて制作し、輸出すべきことを詳しく、理論立てて述べている。」。
続けて忠正は「将来を展望して原因を究明し、正し、進歩しようとする人をみたことがない」とし、国際感覚もなく、漠然と輸出に取り組む故郷の人々を強く批判している。
木々氏は「高岡の人たちは、当時のパリでは、日本美術が中国と混同され曖昧な認識であったことも、日本の文化と西欧の日本に対する認識の落差を正確に分析することが出来る人は、林忠正以外はいなかったという事実も知らない。西欧社会における美術政策や産業・流通・経済の仕組みの近代化を目撃し、革新的な芸術家たちが堅固な古典的美術観と闘う日々を共に体験し、また渡仏してくる要人たちに「美術問題」を国家の根幹との関係から訴えていた事実と、それによる、林忠正という個人への高級官僚たちの信頼も知らないのである。」としている。
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〔主要参考文献〕
・定塚武敏『画商林忠正』北日本出版社,1972
・定塚武敏『海を渡る浮世絵~林忠正の生涯~』美術公論社,1981
・木々康子『林忠正とその時代―世紀末のパリと日本美術』筑摩書房,1987
・藤井素彦「工芸の座―林忠正のおしえ」(高岡市美術館ニュース「PATIO」7 号,1998)
・山本成子「「高岡銅器維持ノ意見」とそのもたらしたもの」(『とやま文学』35 号,2017)
・仁ヶ竹 亮介 HP「高岡市立博物館/収蔵品から/『高岡銅工ニ答フル書』」2023 更新、20261006 アクセス
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